一人称とは三人称の構文糖にすぎないのでは?

以下、まとまらないままメモ。
最近ずっと自己言及や再帰について書かれた本を併読している。あえて選んでいるわけではなく、興味のある本を選んだら皆自己言及もしくは再帰について触れている本ばかりであった。併読しているのもわざとではなく集中力の欠如が招いた結果なのだが、あれこれ読んでいるうちにあるイメージが浮かんできた。「私に理解させる」といったような、動詞の目的語に自分を指定するやり方だ。主語が第三者なら珍しくもないが、主語も自分だとしたらどうだろう。

実のところ、これまで「手続きを定義する」と紹介してきた
(define (<名前> <引数> ...) <式> ...)
という構文は、次の構文の簡略表記にすぎません。
(define <名前> (lambda (<引数> ...) <式> ...))

- 「プログラミングGauche

「日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」犀川は突然話し出した。「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これは、もともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるのではなくて、つながるだけ......。」

「僕の個人的な意見として、人間って、単一人格者の方が少ないと思っている」

- 「すべてがFになる - The perfect insider」

また学生時代に英語を学んでいた頃に、自動詞(〜する)と他動詞(〜させる)では他動詞の占める割合がやけに多いな、と不思議に思っていたことも思い出した。

これらの記述からいかにして表題の疑問を持つに至ったのかは自分でもよくわからないが、発想なんてそんなものだろう。もう少し進めて考えると「自分とは他人の特殊な場合である」ということにもなりそうだ。

やらなければならないことを考えるとき「私が〜しなれけば」を「私に〜させなければ」と置き換えて考えると実行するのが気楽になってしまうのは、やはり私が他力本願だからだろうか。

プログラミングGaucheすべてがFになる (講談社文庫)ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版